「pray」


「きらきらはじけとぶ、水のうごきやかたち、その模様に
なぜこんなにもひっかかるのか。撮り続けているのか。
それをさぐってさぐっていくこと。

様々なかたちにかわる水の性質にその時々の想いや、
うまく言えなかったことば、伝えきれなかったこと、
きもちの奥の奥の奥にあるものを投影しているのだろうか。

この行為は、祈りや願いといったものと近いのかもしれない。
それは、ごくごく水をのむことと同じようなことかもしれない。」


制作メモ:方丈記の最初の文に自分の写真の写り方やり方は近いのではないか?と思ったこと ある本読んでいて

「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。 ]
よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。
世の中にある人とすみかと、またかくの如し。
玉しきの都の中にむねをならべいらかをあらそへる、たかきいやしき人のす ... 」 方丈記より

「毎回の様になんでこの様な流れる様な写し方なのか?とかと問われる度に
その方が自分はしっくりくるから、、その方が好きだから、、その方が世界だと思うから、、
という答え方をしていたのだけれど
んとうにこんなふうにものごとがながれてとどまらないでいってしまって、
今ここに在ってもまたどこかにきえてゆくことがふしぎでたまらなくて
どんどん流れていってしまうことの不思議さや堪らなさ、でもそれはそんなにわるいことでもないのかもしれない、、
という様な感情を表すには
こういう流れる様な、はっきりしている様なしていない様な、
でも時々ぱっと何か見える様なこの表現方法が自分には必要で、
やっぱりそういうとどまらないこの感じが世界だと思うから、、としか言えないんだけど
だからこういう表現、カタチになるのです、としか
でもこの感覚はいまのワタシが作ってるけれど過去も未来の人にも通じる感覚でしょう、男女差も年齢差も国も超えて
だから伝わる人には伝わるのではないか、と

とどまらない現実のその不思議さや堪らなさ辛さをどうにかひかりのある方に変換して
目に見える形にしたいっていうのはすごくある
折角ビジュアル(写真)なものをやっているので
そういう作業と姿勢が制作であり生活しながらの祈りの様なものだと思っていて
そう思わないとやってらんないんだけど」

この時代がいい時代か悪い時代かなんて分からない、
けど何とかよいもの、ひかりのあるものをみたい、って思いつつ   


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